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芭蕉館

[2012年4月8日]

芭蕉館の見どころ

日本の古典文学でもっとも有名な作品のひとつである松尾芭蕉「奥の細道」

芭蕉館は、「奥の細道」全体を扱った展示になっており、「奥の細道」の本文をじっくりと読むことができます。

 「奥の細道」は、今からおよそ320年前に松尾芭蕉という俳人(俳句作家)が書いた紀行文と俳句を組み合わせた文学作品です。紀行文とは、旅行中に体験したことや感じたことなどを書き記したものです。

俳句とは、五・七・五の十七文字からなる世界でも最も短い形式の詩。この大垣でも、多くの人が俳句文化に接しています。

 芭蕉は、元禄2年(1689)3月27日に、門人の曽良とともに江戸を出発し、東北・北陸地方を巡り、8月21日に大垣で、『奥の細道』の旅を終えました。ときに芭蕉46歳。距離にしておよそ2400キロ、150日あまりにおよぶ生涯で最大の旅でした。

 芭蕉はこの旅で、豊かで美しい自然を体感し、各地の名所・旧跡を訪ね、土地の人々と出会った。そして、芭蕉は、この旅をきっかけに新しい俳句の境地(『不易流行』)を開くことになりました。

※『不易流行』
 「不易」とは、たとえ時が経とうとも変わらないもの。「流行」とは、時とともに移ろい行くもの。この変わるものと変わらないもののふたつは一体であるという考え。

『奥の細道』に旅立つ理由

 元禄2年(1689)3月27日に、芭蕉さんは江戸・の住まいを売って『奥の細道』の旅に出発します。その数日前に岐阜に住んでいた門人に手紙を書きました。その手紙には『奥の細道』の旅に対する芭蕉の思いが、いろいろ綴られており、芭蕉館に展示されています。

 その文中に「はのなり」という一文があります。この一文こそが、芭蕉が、『奥の細道』の旅に出た大きな目的のひとつを象徴的に現している部分です。

 芭蕉が生きていた当時、「俳諧」は低俗な文学ジャンルで、「和歌」は雅で高貴な文学ジャンルと一般的に思われていました。

 しかしながら、芭蕉さんは「俳諧は往古の歌なり」と考えました。つまり、「俳諧は、往古(大昔)からあった和歌と同じ文学的価値のある雅で高貴な文芸ジャンルである」と考えたわけです。

 そのために芭蕉さんは、和歌で詠まれた東北・北陸の有名な名所・旧跡(歌枕の地)を、俳諧師である自分が直接見て、感じ、往古の歌人たちと詩心を重ね合わせるために旅に出ました。

『奥の細道』が大垣でむずばれた理由

 江戸・深川の住まいを売り、死さえも恐れず、東北・北陸の歌枕の地を巡って、往古の歌人たちと心を重ね合わせた旅をどこで終えようか。

 「それは大垣だ!」と芭蕉さんは考えました。それほど芭蕉さんにとって、大垣は大切な土地でした。

 なぜなら、芭蕉さんが活躍していた元禄時代の大垣は、川運と陸運が交わる交通の要衝として、新しい文化が花開く勢いあふれる土地であったのです。

 同時に、芭蕉さんが、まだほとんど無名であった若い頃から、芭蕉さんとともに俳句を愛し、芭蕉さんに心を寄せるたくさんの俳人たちが集う土地だったからです。

 また、大垣の俳人との交流をきっかけに、芭蕉さんが生み出した新しい俳句の境地は、大垣から名古屋、熱田、鳴海など東海地方に広がっていきました。

 このように早くから芭蕉の俳諧精神を深く理解する優秀な門人たちがいる、よき思い出の土地だった大垣を「奥の細道」の終着の地とすることは、芭蕉さんにとって、ただの偶然でも、旅路上の都合でもなく、大きな意味がありました。

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