ページの先頭です

共通メニューなどをスキップして本文へ

このページを一時保存する

スマートフォン表示用の情報をスキップ

現在位置

特集 幕末・維新期の大垣の先賢たち (平成30年3月15日号)

  • [2018年3月15日]
  • ページ番号 39934

特集 幕末・維新期の大垣の先賢たち


 「幕末」・「明治維新」と呼ばれる激動の時代、全国ではさまざまな人物が活躍しました。実は大垣にも、梁川星巌と小原鉄心という、近代日本を形成する上で重要な役割を担った人物がいたのをご存知ですか。ここでは、その二人の足跡を紹介します。
 そして、今年は大垣市制100周年。町から市となり、現在に至るまで100年にわたって発展してきました。この機会に、大垣市が誇る先賢について学び直してみませんか。

≪詩人であり憂国の志士≫ 梁川星巌(やながわせいがん)

 寛政元年(1789)~安政5年(1858)
梁川星巌 華溪寺蔵

華溪寺蔵


【若き日の過ち】
 寛政元年、現在の大垣市曽根町で生まれた梁川星巌は、幼くして両親を亡くし、近所の華溪寺の住職・太随和尚に学びます。
 19歳で江戸に遊学しますが、1年も経つと遊郭遊びに耽り、多額の借金を負います。この話を太随和尚も知り、激しく叱責されますが、剃髪し反省の意思を示し、心を入れ替え勉学に励みました。


【詩人として活躍】
 29歳で大垣に戻った星巌は、私塾・梨花村草舎を開きます。その時の教え子の一人が紅蘭であり、星巌が32歳の時に結婚しました(紅蘭は15歳年下で、星巌とは再従妹)。
 その後、夫婦で5年にわたる西日本への旅に出て、詩人として名声を高めることになるほか、江戸に玉池吟社を開き、漢詩壇の中心として活躍しました。


【憂国の志士として】
 星巌が50歳になるころより、佐久間象山らと政治談議を交わすようになり、尊王攘夷思想や幕政批判に傾倒していきます。
 58歳で京都に居を移し、吉田松陰ら幕末の志士と呼ばれる人物と交流するようになり、その指導者的存在となる一方、幕府からは危険人物と見なされるようになります。
 そして安政5年、井伊直弼による「安政の大獄」と呼ばれる激しい弾圧が始まる直前、コレラにより70歳で急逝。そのため、世間からは「死(詩)に上手」と言われました。


◆◇西郷隆盛も訪問◇◆
 星巌は、58歳で京都に拠点を構えて以降、公家の久我建通に意見を述べたり、同じく公家の三条実万に目をかけられて、朝廷の事情にも通じるようになります。
 そこで、朝廷の意向を知ろうと考える勤王の志士らは、頻繁に星巌を訪ねたのです。
 その志士の一人が、薩摩藩士であり、今年注目されている西郷隆盛でした。

西郷隆盛 国立国会図書館「近代日本人の肖像」

国立国会図書館「近代日本人の肖像」
 

≪大垣の近代への導き手≫ 小原鉄心(おはらてっしん)

 文化14年(1817)~明治5年(1872)
小原鉄心 大垣市立図書館蔵

大垣市立図書館蔵


【師との出会い】
 文化14年、大垣藩士の家に生まれた小原鉄心は、16歳の時に父を亡くし、若くして小原家の家督を継ぐことになります。
 その後、斎藤拙堂から詩文・政治・経済を、鴻雪爪から禅を、山鹿素水から兵学を学ぶなど、修学に努めました。


【藩政にまい進】
 当時の大垣藩は財政状況が厳しく、鉄心は城代として財政改革を行い、大きな成果を挙げたほか、治水にも尽力します。
 また、ペリー来航時に浦賀の警固を経験したことにより、西洋式の軍制に改革することを藩主に提案、実施するなど、大垣藩の重臣として活躍しました。


【新政府への出仕】
 大垣藩は、禁門の変(1864年)や第二次長州戦争(1865年)では幕府側として戦いますが、新政府が樹立すると、鉄心は新政府の参与という要職に就任します。
 しかし、それと同時に勃発した鳥羽・伏見の戦いでは、大垣藩は旧幕府側として戦っていました。鉄心は藩が朝敵となることを避けるため、藩主の戸田氏共や重臣らを説得し、新政府側に従うことで統一させました。
 以後、新政府の財政基盤確立に尽力する一方、大垣藩の大参事として戸田氏共の補佐をするなど活躍をしますが、新しい時代が産声を上げて間もない明治5年に、56歳で亡くなりました。


◆◇木戸孝允との出会い◇◆
 鉄心が木戸孝允と初めて会ったのは明治元年3月だったようです。
 鉄心と鴻雪爪が、京都嵐山の雪亭で対酌していたところ、隣の部屋に木戸孝允らも酒を酌み交わしていました。木戸は隣の部屋をのぞき見た後、鉄心らを招き入れ、政治談議に花を咲かせて夜中まで盛り上がりました。
 鉄心の書簡では「嵐山での酒興以来の付き合いは、筆紙に尽くしがたい」と書かれているなど、親密な関係でした。

木戸孝允 国立国会図書館「近代日本人の肖像」

国立国会図書館「近代日本人の肖像」
 

星巌と鉄心、2人について聞きました!

◎曹源山華溪寺 住職 加藤泰寛さん
曹源山華溪寺 住職 加藤泰寛さん


 梁川星巌は、生家を捨ててまで自分のやりたいことをやった人です。その決心からして、大垣という地方でおさまるような人ではなかったと思います。太随和尚もそのことを認めていたからこそ、江戸への遊学に送り出し、怠けたときは叱咤激励したんだと思います。
 お寺の敷地内には梁川星巌記念館があり、私が案内もしています。そこで漢詩人としての星巌だけでなく、若き日の人間味あふれた失敗談や晩年の偉業も知っていただければと思います。


◎小原鉄心顕彰会 会長 下里吉平さん

小原鉄心顕彰会 会長 下里吉平さん


 小原鉄心は、幕末の大垣藩において最も中心的な役割を担った人物です。
 行政官・文人としての鉄心は、梅を愛し酒を愛して多くの人々と交流を深め、明治維新において、大垣藩の進むべき道を間違いのない方向へ導きました。
 今年、明治150年、大垣市制100年を迎えるにあたり、改めて小原鉄心顕彰会として小原鉄心を含む幕末の偉人について勉強したいと考えています。


≪近代の大垣や日本の礎を築いた先賢たち≫

 明治20年(1887)、日本で学位令が制定されました。その翌年には、初めて行われた博士号授与式において、全国25人のうちの1人として松本荘一郎が工学博士号を授与されています。
 その後も、理学博士の松井直吉や文学博士の南条文雄など、大垣出身の博士が次々と誕生し、明治時代だけでも10人にのぼりました。
 こうしたことから、大垣は「博士のまち」と呼ばれるようになり、各分野で熱心に学問に取り組んだ先賢の活躍をうかがい知ることができます。
 星巌や鉄心が江戸時代から明治時代へと続く道を築き、そして明治に活躍した先賢へと人脈がつながり、「博士のまち」・「文教のまち」として現在まで続いているのです。

≪大垣の先賢については奥の細道むすびの地記念館へ≫

奥の細道むすびの地記念館

 松尾芭蕉の俳諧紀行文『奥の細道』の解説をはじめ、芭蕉の人となりや人生を紹介する「奥の細道むすびの地記念館」。
 ここに「先賢館」があり、紙面で紹介した梁川星巌、小原鉄心をはじめ、江馬蘭斎、飯沼慾斎、江馬細香の5人の先賢に関する常設展示を行っているほか、館外には、小原鉄心の別荘だった無何有荘大醒榭=写真・左=が移築・展示されています。
 また、企画展示室では、夏期に開催する企画展で、前述の5人以外にも焦点を当てて展示を行っています。
 そのほか、先賢を紹介した漫画=写真・右=や図録も販売されており、大人も子どもも問わず学べる場となっています。

無何有荘大醒榭
先賢を紹介した漫画

◇ところ : 大垣市船町2-26-1
◇展示時間 : 午前9時~午後5時 ※多目的室などは、午後9時まで開館
◇入館料 : 300円 ※高校生以下無料
◇アクセス : 大垣駅南口から徒歩16分。または名阪近鉄バスに乗車、「奥の細道むすびの地記念館前」バス停下車すぐ
◇駐車場 : 無料駐車場が隣接
◇問い合わせ : 奥の細道むすびの地記念館(TEL 84-8430)へ

Copyright (C) Ogaki City All Rights Reserved.