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守屋多々志美術館第80回企画展「大和魂ー守屋の描く武士ー」展示作品のご紹介

  • [2020年7月16日]
  • ページ番号 50565

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 こちらでは守屋多々志美術館第80回企画展「大和魂―守屋の描く武士―」の展示作品の一部をご紹介します。ご来館の参考にしていただければ幸いです。

なお、このコンテンツの画像は著作権保護のためダウンロードやコピー等はご遠慮ください。


展示室に入ってみましょう

 今回の企画展は、武士の魂といわれる甲冑を精緻に描写した武具スケッチや、武士を描いた歴史画を中心に展示しています。
 展示室に入ると正面のガラスケースには、白を基調とした四曲一隻屏風が展示されています。


《生田敦盛》(1948年、個人蔵)

  この作品は、守屋が1948年、36歳の時に描いた≪生田敦盛≫です。
 本作は謡曲「生田敦盛」をテーマとして描かれました。平敦盛 は、平経盛の子で、一ノ谷の戦いで源氏方の熊谷直実に討たれ16歳で戦死しました。謡曲では、敦盛はこの時、妻のお腹に子を残して亡くなったとされています。敦盛の遺児は法然上人に大切に育てられますが、ある日自分の本当の父親のことを聞かされ、敦盛に一目会いたいと訴えます。法然上人に連れられ、生田の森(神戸市生田神社境内の森、源平合戦の古戦場)で亡き父の菩提を弔うと甲冑姿の敦盛の亡霊が現れたのです。
 本作はこの場面を取り上げたもので、画面左に描かれた法然上人と遺児ははっきりと描かれているのに比べ、画面右に描かれた敦盛は若々しく華のある装束を身に着けていながらも、どこかぼんやりと描かれ敦盛がこの世のものではないことを示唆しています。
 守屋は戦時中、戦地へ赴いた経験もあり、共に活動した仲間の中には家族を残し戦死した方もいたそうです。本作は戦死した友人とその家族への思いを込めて描いたといいます。


作品の大下図をご紹介します

《大下図 星と武者》(1968年、個人蔵)
 こちらの作品は当館所蔵の《星と武者》という作品の大下図です。
 平安末期、1159年12月に起きた「平治の乱」を題材として描かれ、本画は1968年に開催された第53回院展に出品されました。
 描かれているのは、加茂河原に集結した平家の武者達です。
 本画は群青でまとめた静かな色調で、冬の星空と厳しい状況に置かれた武士の緊張感を描き、甲冑の金具や刀の刃先、弓の弦がきらめく星と呼応するように光を放っているのに対し、今回展示している大下図からは、精巧な甲冑の描写から守屋の武具研究の造詣の深さを見ることができます。
 下図ではありますが、描き込みの緻密さに驚かされる一枚です。


《大下図 継信忠信》(1941年、個人蔵》 
 こちらの作品は1941年に院展に初出品し初入選を果たした《継信忠信》(岐阜県美術館所蔵)の大下図です。
 佐藤継信、忠信兄弟は、奥州藤原氏の郎党佐藤元治の子であり、源頼朝挙兵に参じた義経の家臣となり、義経四天王と称されました。本作では義経のお供として源頼朝のもとに参じた黄瀬川での堂々たる姿を描いています。
 守屋は本作を描くまで鎧を写生した経験が無かったため、師である前田青邨を通じて、青邨と並ぶ歴史画の大家・安田靫彦の所有する大鎧(小堀鞆音が制作)を借り、日々模写と人物デッサンを繰り返し、作品を完成させました。しかし同年、靫彦も武者絵制作を予定しており、返却を忘れて模写に没頭していた守屋に催促があったそうです。安田邸で恐縮する守屋に靫彦は「写生は十分にできましたか」と声をかけ、作品にかける熱意を認めてくれたといいます。
 同じ鎧から、靫彦は、頼朝義経兄弟の対面を描いた名作≪黄瀬川陣図≫(重要文化財、国立近代美術館所蔵)を発表しました。

可愛らしい武士たちをご紹介します

《金太郎》(2001年、個人蔵)

《桃太郎》(2001年、個人蔵)

 こちらの2点は昔話でもお馴染みの《桃太郎》と《金太郎》です。当館が開館する際に来てくれる子どもたちにも楽しめるような作品を、ということで描かれました。
 金太郎は、源氏の重臣酒田蔵人時行の忘れ形見で源頼光に仕え、大江山の酒呑童子征伐に加わったなどの伝説があります。金太郎は「金」の文字が入った前掛けをつけ、子どもらしく表情豊かな目で、動物らの相撲を夢中で見ています。
 一方、鬼退治で有名な桃太郎は、室町時代以前に成立し、岡山県の吉備津神社にまつられている大吉備津彦命がこの地を平定した戦いが物語の起源ともいいます。若武者桃太郎は華やかな赤い鎧を身につけ、「日本一」ののぼりを手にした犬をはじめ、家来たちも盛装で凛々しくかしこまった表情をしており、可愛らしくも面白い作品です。
 桃太郎と金太郎は子どもたちにもお馴染みのテーマであり、来館した親子連れが作品の前で楽しく話す姿もしばしば見られる、当館の人気者です。

歴史を支えた女性たち

 歴史上で表立って活躍し、名を残した人物は男性が多いですが、彼らの周りには必ず彼らを支え、助けた女性がいたはずです。
 守屋は歴史上の男性だけでなく、そういった女性にも関心を持ち、華々しい男性の裏にいた女性を描きたかったと語っています。ここからはそういった歴史の裏で活躍した女性を主人公に描いた作品をご紹介します。

《無明》(1984年、大垣市蔵)

 こちらの作品は1984年、第69回院展に出品されたもので、「平家物語」の一節、白拍子の姉妹「祇王祇女」に想を得て、仏御前の出家の場面を描きました。
 姉・祇王は美しい白拍子で、平清盛に愛されましたが、ある日舞を見てほしいと訪ねてきた若い白拍子・仏御前に寵愛が移り、長年の寵愛も虚しく捨てられてしまいます。傷心の祇王は妹・祇女と共に出家し、母親と3人で嵯峨野に住み始めます。
 しかし、祇王から自分へと簡単に心を移した平清盛の様子を見て、捨てられた祇王に将来の自分の姿を重ねた仏御前は自ら出家し、祇王らの住む嵯峨野へ移り一緒に生活し始めるのです。
 画題の「無明」とは、仏教において煩悩にとらわれて一切諸法の真理を知ることができない状態のことであり、煩悩にとらわれている間は月の光が見えないといいます。
 描かれている仏御前は俯き、はっきりとした表情は読み取れません。しかし、彼女の進む先には梅の花が美しく咲き誇っています。これは今の彼女は月の光や花さえも見えない心理状況かもしれませんが、これから先、花に癒されるような穏やかな時もきっと訪れるという守屋ならではの励ましなのかもしれません。
 大きな画面は大胆に四分割され、黒・赤紫・銀・白と限られた色彩で幻想的な画面を作り上げています。尼僧(仏御前)が迷う無明界を表出する新しい画法ですが、なんとも象徴的で見るものに強い印象を与える作品です。

《赤穂の灯(浅野内匠頭の妻)》(1996年、大垣市蔵》

 こちらは「忠臣蔵」で知られた赤穂事件を題材にした作品で1996年、第81回院展に出品されました。1702年12月の赤穂浪士の討ち入りから1年後、主亡き赤穂の屋敷を描いています。
 灯篭に明かりを入れる黒衣の女性は、浅野内匠頭の妻・瑶泉院、本名を阿久里といいます。討ち入りの日と同じく雪が降り、夜の闇と椿の赤がしっとりと描かれています。まるで舞台の一場面を見るように、私たちも自然と画面に引き込まれ、瑶泉院の胸中がしのばれます。本作について、守屋は以下のように語っています。
「夫の仇討ちのために、身を捨てて本懐を遂げた浪士達への感謝と、その結果自分と同じ境遇になった浪士の妻達への思い。瑶泉院を通して華々しい男達の裏にいた女性を描きたかった。」(山陽新聞1997年1月3日より)

季節の一枚

《月の宴》(1974年、大垣市蔵)
 こちらは1974年、第59回院展に出品された《月の宴》です。
 江戸初期・元禄の頃、七夕の京都では、町衆の少女たちが美しく着飾って小太鼓などを奏でながら練り歩く小町踊が賑やかに繰り広げられていたそうです。
 画面いっぱいに多数の人物が描かれていますが、斜めの平行線で統一され、流れるようなすっきりとした構成にしてあることもあり、群舞のリズミカルな動きがいきいきと表現されています。
 背景には、題名にもある大きな月が象徴的に描かれています。月明かりの銀と、少女たちの身に着けている装束の優美な色調があいまって、宴の音曲と甘美な香料の匂いが流れてくるような幻想的な情景です。
 守屋は、絵画の制作の他、歌舞伎や舞踊の舞台美術を多く手がけており、華麗な装束や所作の描写にも、歴史研究と舞台美術の経験が活かされています。

大垣市守屋多々志美術館ホームページトップへ

 皆さま、第80回企画展「大和魂-守屋の描く武士-」作品紹介はいかがでしたか。
 ここでご紹介した作品以外にも、今回の企画展では歴史画の第一人者といわれた守屋が描いた数々の歴史画や、それらを制作するうえで資料としていた精緻に描写された武具スケッチなど多くの作品を展示しています。
 実際にご覧になると、きっとその描写の細かさや迫力に驚かされ、武士や日本古来の武具の恰好良さを感じられるのではないかと思います。
 ぜひご来館いただき、作品をご覧いただけましたら幸いです。

 このほかの守屋多々志美術館の詳しい情報は大垣市守屋多々志美術館ホームページトップ(別ウインドウで開く)をご覧ください。

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