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守屋多々志美術館第81回企画展「守屋の描いた色・彩(いろいろ)」展示作品のご紹介

  • [2020年10月1日]
  • ページ番号 51106

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  守屋多々志美術館では、10月3日より第81回企画展「守屋の描く色・彩(いろいろ)」を開催します。ここでは展示作品より、注目の作品やおすすめの作品をご紹介いたします。
 ご覧いただき、ご来館の参考にしていただけましたら幸いです。

なお、このコンテンツの画像は著作権保護のためダウンロードやコピー等はご遠慮ください。


展示室に入ってみましょう

  今回の企画展は「守屋の描く色・彩(いろいろ)」と題し、年代ごとの色調の変化を感じる作品や、人物の心情を光の明暗や印象的な色彩で表現した作品などをご紹介しています。
 展示室に入ると正面のガラスケースには、まるで油絵のように絵の具が厚く塗られた重厚な印象の四曲一隻屏風が展示されています。

《巴里の若き岡倉天心》(1995年、大垣市蔵)

 この作品は、守屋が1995年、83歳の時に描いたもので≪巴里の若き岡倉天心≫です。
 岡倉天心(1863~1913)は明治時代の美術指導者で思想家です。幼い頃より英語を学び語学力のあった天心は、在学していた東京開成所(のちの官立東京開成学校、現在の東京大学)で講師を務めていたアーネスト・フェノロサ(1853-1908)の助手・通訳を務めるようになります。フェノロサの美術品回収の手伝いをするうちに、天心自身も日本の美術に興味を抱くようになりました。そして1889年にフェノロサと共に、守屋の出身校でもある東京美術学校(現在の東京芸術大学)の設立に携わり、1890年には27歳にして校長になります。1898年に校長を辞任した後は、守屋も作品を出品していた日本美術院(院展)を設立するなど、日本の伝統美術の振興と革新に指導的役割を果たし、東洋・日本美術を海外に紹介しました。
 この作品では、1887年にフェノロサと共にパリへ渡った天心が、パリ最古のステンドグラスがあるサント・シャペル寺院にたたずむ姿を描いています。この寺院では、創世記からキリスト復活までの聖書にちなんだ物語をステンドグラスで表現しており、作品にも登場するバラ窓は見どころの一つとなっています。本作では、金箔を用いたステンドグラスの光が穏やかに広がり、黒を主体として描かれた寺院の静けさが効果的に表現されており、西洋の文化に接し、日本美術の将来を想う天心の胸中と重なります。
 実物を実際にご覧いただくと、より奥行きや迫力を感じられる作品の一つです。

時代ごとの作風の移り変わりを、作品を比較しながらご覧ください

《オランダ正月》と《阿蘭陀正月》

額に入った大きな作品が2枚並べて展示してあります。よく見ると2枚の構図は大変似ていますが、人物やものの描き方や色調は全く異なっています。
 この2枚にはどんな関係性があるのでしょうか?

《オランダ正月》(1940年、大垣市蔵)、《阿蘭陀正月》1965年、大垣市蔵)

 画面左に写っている作品は《オランダ正月》という作品で、1940年、守屋が28歳の時に描きました。再興日本美術院展に出品するために描いたのですが、その年に結婚やそれに伴う引っ越しを行い忙しさから出品が叶わなかった作品です。ちなみに翌年1941年に《継信忠信》を守屋は再興日本美術院展に初出品しています。
 こちらの《オランダ正月》は日本画特有の遠近感をなくした平面的な構図に、線描と淡い彩色を重ね全体をすっきりとまとめています。招待された奉行所関係者らは、どこか緊張気味な表情をし、好奇心に満ちたまなざしで宴席についています。戦前から既に日本と海外との交流という歴史に関心を寄せていた守屋の大きな視点が分かる一作です。
 一方で画面右に写っている《阿蘭陀正月》は1965年、守屋が53歳の時に描いた作品で、未出品に終わった《オランダ正月》を四半世紀の時を経て再び同じテーマで描いたものです。四半世紀の間には、守屋はイタリアへ留学するなど大きく作風が変化するような出来事もあり、≪阿蘭陀正月≫ではまるで油絵や壁画のようにも見える厚塗りされた画面で質感を強調し、あえて人物の向きを揃えるなど、西洋の壁画や油彩画の効果を意識した描き方をしています。また、≪オランダ正月》より食器やカステラなどの描写も充実しており、守屋の歴史考証の成果も垣間見えます。
 2枚並べて展示することは普段あまりないですが、守屋自身の表現のいろいろをご覧いただきたく、今回はあえて同じテーマで描かれたものを並べて展示をしています。実際に比較しながらご覧いただくと、より守屋の表現力の多彩さを感じていただける2枚です。

守屋の青の時代


《星と武者》(1968年、大垣市蔵)

 こちらは1968年、守屋が56歳の時に描いた《星と武者》という作品で、平安末期、平治元(1159)年12月に起きた「平治の乱」を題材として描かれました。
 作中では冬の星空の下、加茂河原に集結した平家の武者達がこれからいざ戦いに出て行こうとしています。一面を群青にまとめ、厳しい状況に置かれた武者達の心の内を映すかのように、空には星が瞬いています。
 守屋の作品では時折見られる構図ですが、武士たちは全員後姿のみが描かれ、甲冑や武具の意匠を描き分けています。このようなところにも歴史研究に通じた守屋の力量がうかがわれます。
 守屋は昭和40年代、自分の画風の確立を模索し、主体のみならず背景も青い、「青」を基調とした作品を多く描いています。本作はまさに守屋の「青の時代」を代表する作品ということができます。

守屋の描いたいろいろな歴史画

《ある日の武蔵》(1988年、大垣市蔵)

 こちらの作品は1988年、守屋が76歳の時に描いた《ある日の武蔵》です。
 宮本武蔵(1584~1645)は江戸時代初期の剣客であり、武者修行のために諸国を遍歴し、二刀流をあみ出し二天一流の祖となった人物です。1612年に行われた、壇ノ浦にある巌流島(船島)での佐々木小次郎との試合がよく知られています。
 武人として非常に名高い武蔵ですが、その一方で大変感性が鋭く、晩年には仏像彫刻、水墨画にも優れた才能を発揮し、その作品は国の重要文化財に指定されているものもあります。彼はそれまでの戦いで多くの人の命を奪った過去もありますが、この作品では、晩年の武蔵が仏像を彫るという行為から、彼の深い信仰心を表現しました。
 背景の青色について、守屋は「己が剣に討たれた人々の冥福を祈り、一心に仏像を刻む。青海は心の海である。」という言葉を残しています。
 また、流木に描かれたトカゲは以前戦った佐々木小次郎や自分が斬ってきた人々の魂を表現しているとも言われています。
 歴史上の数々の人物を描いてきた守屋ですが、この作品も例外ではなく、描く時にはその人がどういった人物だったのか、描きたい年齢にあった時にはどのような思想を持っていたのかということも研究を欠かすことなく行い、独自の目線から作品にしていきました。
 守屋の作品に描かれている人物の姿は、一般的によく知られている作品の中の姿とはまた違う部分もあるかもしれません。同じ人物が描かれていても、画家によって描き方や表現の方法に違いがあることを比較して見てみることも、作品鑑賞の楽しみの一つではないでしょうか。

《二河白道》(1982年、大垣市蔵)
 こちらの作品は1982年、守屋が70歳の時に作成した≪二河白道≫です。
 二河白道とは、唐の善導大師の説話です。獣や盗賊に追われた旅人が、火の河と水の河にはさまれた狭い道を前に、東から「迷わず逝け」、西から「心を静めで来たれ」という声に導かれ、無事西方へたどり着く、というものです。浄土信仰が盛んであった鎌倉時代、二河白道図は多く描かれました。
 守屋は、戦禍に逃げ惑う女性や子どもたちを、西方の極楽浄土をめざす二河白道図に重ね描いています。上方(西)の極楽浄土と、下方(東)の現世を真ん中の白道がつないでいます。右(北)には貪欲を表す水の河、左(南)は怒りを表す火の河があり、渦巻く水と炎で責められた白道をひたすらに人々が歩んでいます。ただ一人振り返る女性は、作品を見る人に何を語りかけているのでしょうか。
 守屋は新聞で本作についてこんな言葉を残しています。
「振り返ることはできても、引き返すことはできない。ただ進むのみ。そして誰にも渡らなければならないものがある。二河白道を、人の生そのものと理解して描いてみたわけです。いつの時代もシワ寄せを受けるのは女性だし、業の深い存在ともいいますから。そういう生き難さをあらわすために、絵の風俗は応仁の乱の時代に設定したのです。」(読売新聞、1984年 3月18日号より)
 この作品のように、守屋は宗教的なテーマを独自の解釈で作品に描き、発表することもありました。

《みだれ髪(与謝野晶子)》(2001年、大垣市蔵)
 一階展示室最後に展示している作品は2001年、守屋が89歳の時に描いた《みだれ髪(与謝野晶子)》で、歌人与謝野晶子(1878~1942)の少女時代を描いています。画題の「みだれ髪」は1901年発表の第1歌集で、奔放な愛の情熱をうたって反響を呼びました。
 やわらかな水色と紫の着物に身をつつんだ少女が、はじらうような仕草で静寂の室内に桜の花びらとともに、円い窓に浮かび上がっています。落ち着いた黒でまとめた室内に着物の裾が華やかに広がる様子は、王朝文学の女房装束を思わせます。晶子が現代語訳を続けてきた『源氏物語』の作者、紫式部へのオマージュなのでしょうか。また、画面左手にある赤く縁取られたランプは、長年守屋が画室に飾っていたものがモデルとなっています。《歌人(与謝野晶子)》(1988年)や《思い出の五色酒》(1994年)にも同じランプをモチーフとした照明が描かれ、恋の矢を射るキューピッドとともに近代への新たな時代を感じさせてくれます。
 晩年の守屋は養母志満の生きた明治の女性をまだまだ描きたいと語っていました。惜しくもこの作品が守屋の最期の院展出品作となりましたが、与謝野晶子と養母への尽きぬ憧れを込めつつ描き、みずみずしさに満ちあふれた作品となりました。

絵本の挿絵原画をご紹介します

  守屋はこれまでご紹介してきた、院展に出品した大きな作品や、ライフワークとして描いてきた《扇面芭蕉》シリーズなど、主に歴史上の出来事や人物をテーマとして描いた作品のイメージが強いですが、実は子ども向けに出版された絵本の挿絵を担当したこともあります。ここでは、その作品の一部をご紹介します。

《挿絵かぐやひめ「かぐやひめ」と名付けられた女の子》
(1966年、個人蔵)

《挿絵かぐやひめ 美しい娘に成長したかぐやひめ》
  (1966年、個人蔵)

 これらは鈴木出版より刊行された『かぐや姫』の挿絵として描かれました。
 この作品では日本画の画材である岩絵の具ではなく、水彩絵の具、パステル、油性ペンなど子どもたちにも親しみのある画材を使い、愛くるしい動物たちや、かぐやひめが月に帰る幻想的な場面にぴったりの挿絵を、他の作品とは違った大らかな筆致で描きました。特におじいさんのひげや白髪の部分には、わざとかすれさせた油性ペンを使い質感を表現するなど、画材の使用方法にも工夫の跡が見られます。

《挿絵おしゃかさま「ごしょうがい」象の夢》     
(1966年、個人蔵)

《挿絵おしゃかさま「ごしょうがい」おしゃかさまの誕生》
(1966年、個人蔵)

 こちらも鈴木出版から刊行された絵本『おしゃかさま』の一場面で、守屋が挿絵を担当しました。
 先ほどの『かぐやひめ』と同じく優しく大らかな筆致で描かれ、思わずストーリーだけでなく挿絵にも引き込まれます。絵本挿絵は絵の中に文章を入れる余白を作るなど、小説の挿絵とは違い創作できる自由が少ない部分もありますが、『おしゃかさま』では見開きいっぱいの象のお腹に文章を入れ、木の葉をハート形に変化させるなどページをめくる子どもが夢中になる工夫にあふれています。

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 第81回企画展「守屋の描く色・彩(いろいろ)」作品紹介はいかがでしたか。
 今回ご紹介した作品以外にも、今回の企画展では守屋の作風の多彩さを感じられるような様々な表現方法で描かれた作品、登場人物の心情を色彩で表現した作品など、様々な作品をご紹介しています。
 ぜひご来館いただき、「いろいろ」な守屋をご覧いただけましたら幸いです。

 このほかの守屋多々志美術館の詳しい情報は大垣市守屋多々志美術館ホームページトップ(別ウインドウで開く)をご覧ください。

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