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『通史編 近現代』

  • [2014年9月1日]
  • ページ番号 17090

『通史編 近現代』の内容

 『通史編 近現代』は、明治維新期から主に平成18年度までの大垣の歩みを、多くの写真や図表を使用しながら、わかりやすく編集しました。一部は聞き取り調査を実施し、実体験に基づいた歴史として、より鮮明に記述しました。 

本巻の特色

(1) 写真や図表を豊富に掲載

 写真や図表をできるだけ多く掲載して、わかりやすい紙面構成に努めました。

(2) 最新資料の活用と資料編との関連性の表記

 『資料編 近代』や『資料編 現代」』の編纂過程で収集した最新資料を積極的に活用して本文を記載しました。また、本文中で参考にした資料のうち、「資料編」に掲載したものについては(資近代△△)(資現代◇◇)等と注記し、「資料編」との相互性を図りました。

(3) 昭和40年代以降の現代史を記載

 『新修 大垣市史』発刊後のできごと、即ち昭和40年代以降の約半世紀に及ぶ現代史を通史として記載しました。

本巻の内容(近代/抜粋)

【第一章】明治期前半の町政

○維新期の大垣藩の動向

 ペリー来航後、国内は騒然として佐幕、勤王をめぐり、朝廷・幕府・雄藩の対立が激化しました。大垣藩は当初、幕府方として薩摩・長州の官軍と戦い、朝敵の汚名を着せられましたが、藩の重臣会議において激論をかわした結果、勤王の立場を表明しました。この時、大垣藩論を勤王方への統一に奔走したのが藩老小原鉄心でした。大垣藩は新政府から東征軍の先鋒を命じられると、各地で戦功をあげ、勤王方を勝利に導きました。その後、大垣藩は版籍奉還や廃藩置県を経て、江戸時代の領主体制から徐々に脱却していくことになります。

▲小原鉄心

○博士の群像

 明治20年(1887)5月、学位令が制定され、日本で初めての学位授与式が挙行されました。この時、全国25人中の1人に大垣出身の松本荘一郎がおり、工学博士号が授与されました。同年6月には南条文雄に文学博士号、松井直吉に理学博士号、さらに24年には関谷清景に理学博士号、佐藤三吉に医学博士号が授与されました。短期間に5人もの大垣出身者に博士号が授与されると、大垣は「博士の町」ともよばれ、全国的に注目されるようになります。こうした輝かしい功績は、藩校創立前から培われてきた大垣の学問尊重の気風や伝統が奏功した結果ともいえるでしょう。

▲松本荘一郎

【第2章】明治期後半の町政

○大垣町制施行

 明治22年(1889)7月1日、前年4月17日に公布された市制・町村制により「大垣町」が誕生しました。これは領主支配からの完全な脱却を意味し、画期的な大垣のあゆみでした。大垣町内には安八郡役所があり、西濃地域の中核としての役割を果たすとともに、政治・経済の中心地でもありました。発足当初の戸数は4,621戸、人口は19,437人でした。

▲安八郡役所

○濃尾大地震

 明治24年(1891)に発生した濃尾大地震により、多くの家屋が倒壊し、市街地は大火災となりました。震動は何回も発生し、人々は不安の中での生活を余儀なくされました。様々な方面からの救助救援を得ながら、炊き出しや仮小屋作り、医療・救助物資の配布などが行われましたが、救助・復旧活動を進める技術の未発達や行政組織の不備も重なり、適切な対処に円滑さを欠くことになりました。

▲濃尾大地震の大垣町の惨状(後片付けをする婦人)

○明治29年の大水害

 明治時代はたび重なる水害に悩まされた時代でもありました。中でも明治29年(1896)は7月と9月の二度にわたり輪中堤防破堤の水害に襲われました。ほぼ全市街地が浸水し、市中は舟を使っての移動しかできないほどの大洪水となり、多くの人々が行き場を失いました。大垣城天守閣石垣西北角には「明治29年大洪水点」の標柱があり、この水害を凄まじさを今に伝えています。

▲明治29年の大洪水のようす

▲明治29年の大洪水点

【第3章】大正・昭和前期の市政

○大垣市制施行

 大垣は明治22年(1889)、町制施行となりましたが、人口が市制施行基準の25,000人に達しておらず、市制施行申請を却下された経緯がありました。以降、市制施行は大垣町民の悲願でしたが、後の工業都市としての順調な発展や、市制施行に向けての積極的な活動等により、大正7年(1918)4月1日、待望の市制が施行されました。初代市長には、それまで町長をつとめてきた三原範治が就任しました。

▲市政施行当時の市庁舎(大正7年)

○繊維工場の誘致

 明治20年代の大地震や大水害で疲労していた大垣は、産業振興に真剣に取り組み、明治期後半には、地元資本による銀行が数多く設立されました。大工場誘致の気運も高まり、その条件整備として、揖斐川電力(株)による久瀬村西横山の発電所を完成させ、また原料・製品輸送に重要な工場への引込線設置可能な鉄道(東海道線・養老鉄道)も整ってきました。さらに工業用水(地下水)に恵まれ、広大な土地提供も可能となったことから、繊維工場の誘致に成功し、大垣の工業生産額に飛躍的な増加をもたらしました。

▲岸和田人絹株式会社大垣工場

【第4章】戦時体制下の市政

○戦時下の市政

 昭和6年(1912)9月に満州事変が起こり、続いて12年7月に日中戦争が始まると、国民生活のあらゆる面が戦争遂行に向かって統制されていくことになりました。市政も国策に沿っていかなければならず、本市独自の施策を講じてゆくことは許されなくなりました。
 昭和12年に完成した新市庁舎には戦意高揚の懸垂幕が掲げられ、また大垣商工会議所の提唱により、大垣輪中堤防や市内の公共施設・工場・河川沿いには多くの忠魂桜が植樹されました。

▲戦時下の市庁舎

▲植樹された忠魂桜

○大垣の空襲

 戦時下の昭和20年、国内各地の都市は米国による空襲を一層激しく受けるようになりました。その頃、大垣市内の工場は軍需工場に指定され、軍用品の生産に携わっていたこともあり、本市は6回の空襲を受けました。同年7月28日から29日にかけての第6回目の空襲は、B29爆撃機90機、100ポンド焼夷弾3,000発、4ポンド焼夷弾17,000発が投下され、罹災戸数は市街地の約6割の4,900戸、罹災人口30,000人、死者50人、重軽傷者100余人の惨事となりました。

▲焦土と化した大垣の市街地

本巻の内容(現代/抜粋)

【第5章】戦後の政治・行政の展開

○戦後の市政

 昭和20年8月15日、終戦を迎えた本市は、3月から7月にかけての空襲で、市街地の54%を焼失するという悲惨な状況の中にありました。戦後早々に戦災復興部が設けられ、戦災の後片付けと復興に向けた取り組みが始められました。戦後初で官選最後の市長となった安藤又三郎による市政にはじまり、川合市政(川合一)、三輪市政(三輪勝治)、山本市政(山本庄一)、広瀬市政(広瀬重義)、清水市政(清水正之)、森市政(森直之)、小倉市政(小倉満)、小川市政(小川敏)とリレーされ、それぞれの任期において時代に即応した様々な施策が展開され、本市の復興から発展、飛躍を経て現在に至っています。

 

▲駅前道路拡張(昭和36年)

【第6章】戦後の産業・経済

○工業の変遷

 戦前、繊維工業の大工場は、戦時中に軍需工業への転換を余儀なくされましたが、大垣空襲による戦火で多くを焼失しました。戦後、GHQによる軍需工業の停止で本来の姿に戻り、昭和25年(1950)に勃発した朝鮮戦争による内需拡大も重なって、繊維工業は大きく息を吹き返しました。市内では東邦レーヨンや帝国繊維、大垣紡績などの工場が新設・増設を行い、昭和中期には繊維工業の全盛期を迎えることになります。時代が平成に入ると、繊維工業界は苦しい状況となり、その一方で新産業として情報産業が位置づけられる、産業構造の転換がはかられました。そして、情報産業の基盤整備としてソフトピアジャパンが整備され、本市も「大垣市情報工房」を敷地内に建設しました。

▲ソフトピアジャパン全景

○商業の変遷

 戦後間もない昭和21年(1946)、市や商工会議所により開催された「大垣復興祭」によって街は復興気分に満ち、24年に開催された「大垣商品祭」では自由経済による商戦時代の到来を予想させました。戦災復興都市計画では、大垣駅南の道路拡張や、防火帯建築を進め、駅前商店街は大いに発展し、周辺地域からも多くの集客がありました。昭和30年代後半になるとスーパーマーケット等が出現し、平成時代以降は大規模繊維工場の跡地に大型ショッピングセンターが進出すると、中心市街地の集客力の低下や空洞化が進むことになりました。

▲大垣商品祭

▲スーパーマーケット「主婦の店」

【第7章】戦後の社会・教育・文化

○市民生活

 本市は低湿地で古くから排水に問題をかかえていましたが、戦後は工場排水による水路の汚染や伝染病発生、し尿処理が問題となりました。問題解決のため、本市は他郡市に先がけ下水道事業に取り組み、昭和28年(1953)に認可申請を県に提出しました。31年には上水道事業の認可申請も行い、上下水道の布設により市民生活は衛生的になりました。

 また高度経済成長にともない電話や自家用車、三種の神器(テレビ・洗濯機・電気冷蔵庫)といわれた家電が普及すると、市民生活は極めて便利になりました。平成時代になると、パソコンや携帯電話とともにインターネットが広く普及し、生活は豊かで便利になりましたが、一方で核家族化や少子高齢化の進展、地域社会の崩壊等の社会問題が生じました。

▲下水管布設工事(昭和57年)

○教育

 戦後の本市の教育は、戦災で焼失した小学校の復興と学制改革によって設置されることになった中学校の建設が急務となりましたが、小学校は昭和25年(1950)、中学校は33年までにすべての校舎建築を終えました。新制の高等学校も7校が設置され、39年には大垣の繊維工場で働く子女の高等教育を受けたいという願いに沿った教育機関として、大垣市立大垣第一女子高等学校が設立されました。
 

▲大垣第一女子高等学校の開校式(昭和40年)

 社会教育では、26年に第1回の「大垣市成人学校」が、29年には大学開放講座として「生活文化講座」が開かれ、以後社会教育活動が盛んに行われるようになりました。施設では50年に文化会館が、55年には図書館が移転新設され、平成4年には、この2館に学習館を合わせたスイトピアセンターが生涯学習の中核拠点として整備されました。

▲生涯学習の拠点スイトピアセンター

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