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大垣市制100周年記念特集 次代へ伝えたい (平成30年2月15日号)

  • [2018年2月15日]
  • ページ番号 39522
大垣市制100周年ロゴ

大垣市制100周年記念特集 次代へ伝えたい

 今年4月に、大垣市は、市制100周年を迎えます。
 今回の特集では、この節目の年に、人生の大先輩である市内の100歳以上のお二人にインタビュー。100年のまちの歩みとともに時を過ごされてきたお二人に、それぞれの記憶に残るまちの思い出をはじめ、大垣の未来や次代を担う若者への思いなどをお聞きしました。

自分の気持ちを大切に、突き進んで

臼井 治郎さん

臼井 治郎さん(107歳)(釜笛 明治44年生まれ)

 趣味の囲碁が脳の健康の秘訣。今でもたまに対局をするほど。大垣市で生まれ、60歳まで岐阜県の保健所職員として勤務。退職後、釜笛で臼井内科医院を開業。105歳まで医業を営む。

 軽快な足どりで、待ち合わせ場所まで歩いてこられた臼井治郎さん。とても107歳とは思えない動きでした。自分でできることはしっかりとこなす、という強い気持ちを持たれているそうです。
 「医者時代、まごころをもって患者さんに接していた」と話す治郎さんの座右の銘は、“誠心誠意”。今でもその姿勢を貫かれているようです。
 小さい頃のまちの思い出を尋ねると、「中学生のとき、よく金生山を登って、こくぞうさん(明星輪寺)にお参りに行った。あそこから見える景色は圧巻だったなぁ」と当時の記憶を振り返ってくれました。またつらい記憶として、大垣空襲があった昭和20年。保健所の職員として大垣で勤務していた治郎さんは兵隊と一緒に軍用車に乗って、食料の衛生状態を見て回ったそうです。
 「戦争はもう絶対にあってはいけない」。と語気を強くする治郎さん。安全な暮らしやまちの発展を願う気持ちが伝わってきました。
 これからを担う若い人に対しては、「自分の気持ちを大切に、好きなこと、やりたいことに突き進んでほしい」。と語り、心のこもったエールを届けてくれました。

現在の金生山から一望できる景色

現在の金生山から一望できる景色。
今も変わらず人々の心に潤いを与えてくれています。

お子さん3人、お孫さん7人、ひ孫さん9人に恵まれている治郎さん

お子さん3人、お孫さん7人、ひ孫さん9人に恵まれている治郎さん。
写真は、4世代が集う様子。治郎さんの大垣を思う気持ちは、
世代から世代へと受け継がれています。

ずっと、住みやすいまちであってほしい

中山 マサエさん

中山 マサエさん(100歳)(林町 大正6年生まれ)

 朗らかで笑顔がとても似合う中山さん。最近特に笑うようになったとか。大人になるまでを加茂郡白川町や愛知県名古屋市で過ごし子育てをし始めた20代から大垣市で暮らす。

 大垣に住んでこれてよかった。本当にいい所」―。
 そう何度も繰り返し話す中山マサエさん。女手ひとつで子ども2人を育て、苦労が絶えない中、たくさんの人に助けてもらったそうで、その恩を今でもありがたく思っています。
 そんな経験から、よく口にするのは“ありがとう”という言葉。どんな事にも感謝の気持ちを持って接するのがモットーだそうです。
 このまちの思い出を尋ねると、「お祭りはたくさん行ったかな」と答えてくれました。中でも大垣まつりが特に好きだったとのことで、歳を重ねてからもお孫さんやひ孫さんと楽しんできたそうです。
 そんなにぎやかな所が好きなマサエさんは、近所の人たちとおしゃべりすることを長く日課にしてきたとか。
 「話す相手がいることは大切なこと。今日だってお話をしに来てくれて本当にうれしいよ」と、人とのつながりを大切にする心を教えてくれました。
 「大垣は暮らしやすくてやさしい人が多い。ずっとそういう所であってほしい。昔も大変だったけど、今も大変な時代。若い人はとても頑張ってるね」と穏やかなまなざしで語ってくれたマサエさん。その表情は、これからを担う若者たちを温かく見守ってくれているようでした。

昭和36年の大垣まつりの様子

昭和36年の大垣まつりの様子。特に夜宮が好きだったと話すマサエさん。

振り返る おおがき 100年の歩み

1918(大正7年) 大垣市制を施行
1919(大正8年) 国鉄美濃赤坂線が開通
1934(昭和9年) 戸田公入城300年祭を開催
1945(昭和20年) 空襲により市街地の大半を焼失
1952(昭和27年) 大垣競輪場を開設
1956(昭和31年) 国鉄樽見線(大垣~谷汲口)が開通
1959(昭和34年) 大垣城天守閣を再建
1960(昭和35年) 人口10万人を超える
1964(昭和39年) 新市庁舎が完成
1965(昭和40年) 岐阜国体夏季・秋季大会を開催
1968(昭和43年) 市制50周年記念式典を開催
1975(昭和50年) 文化会館が完成
1980(昭和55年) 総合体育館が完成
1982(昭和57年) 国道258号が全線開通
1985(昭和60年) 急患医療センターが完成
1986(昭和61年) 水門川に四季の広場が完成
1987(昭和62年) 大垣駅前広場が完成
1992(平成4年) スイトピアセンター学習館が完成
1992(平成4年) 人口15万人を超える
1995(平成7年) 杭瀬川スポーツ公園が完成
1998(平成10年) 情報工房が完成
2000(平成12年) 決戦関ケ原大垣博を開催
2001(平成13年) 守屋多々志美術館を開設
2004(平成16年) おおがき芭蕉生誕360年祭を開催
2006(平成18年) 養老郡上石津町・安八郡墨俣町と合併
2008(平成20年) 市制90周年記念式典を開催
2009(平成21年) 大垣駅南北自由通路路「水都ブリッジ」が完成
2010(平成22年) 子育て総合支援センターを開設
2012(平成24年) 奥の細道むすびの地記念館が完成
2013(平成25年) 昼飯大塚古墳歴史公園が完成
2016(平成28年) キッズピアおおがき子育て支援センターが完成
2017(平成29年) 男女共同参画センター「ハートリンクおおがき」が開所

大垣城天守閣再建

大垣城天守閣再建

市制50周年記念式典

市制50周年記念式典

合併記念式典

合併記念式典

奥の細道むすびの地記念館オープン

奥の細道むすびの地記念館オープン

統計で見るまちの発展 人口と産業の移り変わり

【人口】
大正7年 3万2,225人 → 平成27年 15万9,879人
人口の移り変わりの国勢調査グラフ
 市制施行当時の人口は3万2,225人だった大垣市。現在、約16万もの市民が市内で生活を営んでいます。
市制施行頃の大垣駅前通り

市制施行頃の大垣駅前通り。100年間でまち並みも大きく変わりました。


【主要産業】
「繊維」 → 「電子部品」
<製造品出荷額の上位5業種の変遷>
主要産業の移り変わりのグラフ
 昭和期は、繊維工業が工業全体の約6割を占め、大垣を象徴する主要産業でした。現在では、電子部品・デバイス・電子回路製造業が全体の約2.5割と最も多いシェアを占めています。


「思い出のアルバム」昔の写真・映像を募集

 市は、昔の市内の写真を公開し、まちの様子を振り返るホームページ「思い出のアルバム」の作成を進めています。現在、市民の皆さんなどから同HPに公開するための写真や映像を募集中。ぜひ、ご応募ください。
 詳しくは、「思い出のアルバム」HPをご覧いただくか、秘書広報課(TEL 47-7376)へ。

写真・映像の公開は、平成30年4月1日を予定

写真・映像の公開は、平成30年4月1日を予定

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