奥の細道むすびの地記念館の所蔵品を紹介します【先賢関係資料】
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奥の細道むすびの地記念館の所蔵品のうち、先賢に関する資料をお楽しみください。(画像の無断転載を禁じます。)
妙技!!瞬間を描く!!
江馬細香筆 四季竹図(二曲一双屏風)
江馬細香が描いた竹の図。春・夏・秋・冬それぞれの竹が描かれています。竹は細香が得意とした画題の一つで、「竹の細香」と称されました。
この作品で特に注目すべきは、左隻の第二扇(一番左の図)です。冬の明け方に朝日で雪が解け、竹の枝が跳ね上がった瞬間が、画面の上方で表現されています。
よく見ると山陰に!?
江馬細香筆 山水図
江馬細香が描いた山水図。右下前景に山が張り出し、その奥に湖に面した水亭、湖の向こうに楼閣を始め建物、そして、左上後景に山々が重なり合っています。
右下前景に張り出した山の陰には、舟に乗った人物が描かれています。これは、世間から離れて生きる徳の高い人物を表現しています。
ミクロを楽しむ♪
江馬細香筆 秋山水図
江馬細香が描いた山水図。左下前景に山が張り出し、その奥に湖に面した水亭、右上後景に山々が重なり合っています。
左下前景に張り出した山の水亭では、2人の人物が何やら語り合っているようです。
「四君子」って??
江馬細香筆 四君子図
江馬細香が描いた蘭・竹・菊・梅の図。「四君子」とは、蘭・竹・菊・梅を、それぞれの特長と君子(徳の高いもの)の特性とを重ね合わせて称えた言葉です。
蘭は、ほのかな香りと気品を備えます。
竹は、寒い冬にも青々としている上、曲がらずまっすぐな性質を持ちます。
梅は、早春の雪の中で最初に花を咲かせる強さを持ちます。
蘭は、晩秋の寒さの中で鮮やかに咲きます。
有名人とも仲良し♪
梁川星巌肖像(『星巌先生遺稿』より)
『星巌先生遺稿』の巻頭に掲げられている梁川星巌の肖像。星巌は、曽根村(現・大垣市曽根町)の出身で、幕末に漢詩人として活躍しました。
一方で政治にも関心を持ち、佐久間象山・吉田松陰・西郷隆盛らと交流しています。赤坂の所郁太郎や上石津の大橋黙僊らとも親しい間柄でした。
たくさんの点々が!?
梁川紅蘭画 梁川星巌賛 山水図
梁川紅蘭が描いた山水図に、梁川星巌が漢詩を添え、夫婦の合作となっています。
画中には、墨の点がたくさん重ねられています。これは、「米法山水」という画法です。輪郭線を用いずに、山の大体の形や木の枝・幹を墨のぼかしで作り、その上に墨の点を重ねて描き上げています。
墨の濃淡が絶妙!!
梁川紅蘭・日根対山画 頼三樹三郎賛 蘭竹昆喜図
梁川紅蘭が蘭と竹、日根対山が蛾と蜻蛉を描き、頼三樹三郎が書を添えています。
右前景の岩に根を張った太い竹は、右後景へと伸びています。その竹の前に、右端から細い竹が交差するように伸びてきています。竹の下には、前景へと伸びる蘭も見えます。この作品では、前後関係が墨の濃淡で巧みに表現されています。
空間の魔術師!?
梁川紅蘭筆 月梅図
梁川紅蘭が描いた月と梅の図。左下部前景から右上部後景へと弧を描きながら梅の枝が伸びています。その先には、朧な夜空が澄んで月が姿を現そうとしています。
この作品では、画面全体を生かし、空間が下から上へ、手前から奥へと広がっています。一方で細部へも気を配り、梅の花びらが丹念に描かれています。
松竹梅といえば??
梁川紅蘭筆 松竹梅図
梁川紅蘭が描いた松・竹・梅の図。
松・竹・梅は、「歳寒三友」と称され、文人たちに好まれた画題です。松と竹は寒中にも色あせず、梅は寒中に花が開きます。こうした姿は、「清廉潔白」・「節操」という、文人の理想を表現するものと認識されていました。
「琴」って!?
梁川紅蘭愛用の七弦琴
梁川紅蘭が愛用した七弦琴。七弦琴とは、「古琴」とも称される中国の古い伝統楽器です。「琴」は、「こと」ではなく「きん」と読みます。
紅蘭が愛用した琴は、裏側に「老龍」の文字が彫られています。このことから「老龍琴」と呼ばれていました。
相撲だけじゃない!?こんな番付も!
『古今南画要覧』
美術番付。著名な画家を故人も含めて一覧にしています。
中央やや下には、「閨秀」という女性画家の項が立項されています。上下2段、32人の女性画家のうち、上段中央左に江馬細香、同じく上段右から3番目に梁川紅蘭(張紅鸞)の名前が掲載されています。
ユニーク!?文字が…!
小原鉄心筆 五言絶句「治要在理財」
小原鉄心が記した政治理念の漢詩。「治要在理財 宜簡不宜苛 厳乎官貸法 其無如之何」と詠み、政治で最も重要なのは財政であると述べています。
重要な理念が詠まれた漢詩ですが、文字は何だか踊っているようです。酒を好んだ鉄心は、酔いがまわると、よく筆をとって書を楽しんだといいます。
個性の秘密は!?
小原鉄心筆 墨梅図
小原鉄心が描いた梅の図。鉄心は、梅が持つ気品の高さや清廉さを、君子(徳の高いもの)の特性と重ね合わせ、梅の図をよく描いています。
梅の図の下に記された鉄心の言葉によると、絵を描くときには、必ずまず大いに酔っ払うそうです。鉄心の書画と酒とは、切っても切れない関係であったようです。
実物が今も!?
無何有荘図(『鉄心遺稿』より)
小原鉄心の別荘「無何有荘」の図。「無何有荘」は、林村(現・大垣市林町)にあり、別荘の中には、「大醒榭」・「小夢窩」・「蓬宇」という亭が建っていました。
現在、「無何有荘」そのものは残っていませんが、亭のうち「大醒榭」が、奥の細道むすびの地記念館に移築され、屋外で展示されています。
留学!アメリカ最古の工科大学へ!
レンセラー工科大学(写真)
アメリカのニューヨーク州トロイ市に所在するレンセラー工科大学の写真。後に工学博士となる松本荘一郎が、文部省初の国費留学生の一人として留学しました。
荘一郎は、レンセラー工科大学で土木工学を専攻し、日本人留学生の半数が卒業できない中を好成績で卒業しました。
殿様も留学!?
松本荘一郎と留学生仲間(写真)
松本荘一郎と留学生仲間の写真。右から荘一郎、山岡次郎(福井藩)、山本重輔(長州藩)、戸田氏共。留学時代の戸田氏共を撮影した写真としても貴重な一枚です。
荘一郎は、レンセラー工科大学に留学中、文部省からの学費支給が打ち切られてしまいましたが、戸田氏共の援助もあり、無事に卒業し、帰国しました。
北海道で初!幌内鉄道の完成♪
幌内鉄道手宮・幌内間の開通式(写真)
明治15年(1882)、幌内鉄道手宮・幌内間の開通式を撮影した写真。この幌内鉄道の建設を指揮したのは、アメリカで土木工学を学んだ松本荘一郎です。
荘一郎は、北海道の開発を指揮した開拓使長官黒田清隆に取り立てられ、鉄道建設・炭鉱開発・市街整備などに力を尽くしました。
失敗しないドクター!?
朝香宮妃殿下允子内親王手術執刀に対する御下賜銀杯
佐藤三吉に下賜された銀杯。明治43年(1910)7月24日、三吉は朝香宮妃の右胸内線維腺腫の摘出手術を執刀しました。
7月30日に抜糸、8月4日に朝香宮妃が全快し、8月9日、執刀の労に対して、銀杯が三吉に下賜されました
大活躍!皇室のお医者様!
高松宮妃殿下御下賜銀製煙草入箱
佐藤三吉に下賜された銀製煙草入箱。昭和10年(1935)11月26日、三吉は虫状突起炎を患った高松宮妃を診断しました。
そして、翌年1月29日に青山徹蔵が手術を執刀し、2月10日に高松宮妃が全快しました。これを受けて、銀製煙草入箱が三吉に下賜されました。
医学の発展に貢献!
御紋章入り銀製花瓶
佐藤三吉に下賜された銀製花瓶。昭和18年(1943)6月17日、三吉の逝去に際し、生前の功績を称えて下賜されました。
三吉は、国際的な視野をもって、日本外科学会などの学会組織の整備に力を入れるとともに、医学界内の専門分野交流や関係機関の協力体制を構築しました。
貝の化石!?赤坂でなぜ!?
美濃・尾張両国地理変革之図
地震学者の関谷清景が作成した地形の変遷図。
猿投神社(現・愛知県豊田市)の宝蔵から出た1700年前の濃尾の地形図と、1400年前および天保年間(1830~44)の濃尾の地形図とを比較しています。
かつては赤坂(現・大垣市赤坂町)まで海が迫っていたことがうかがえます。
命知らず!?噴火口の間近で…!
磐梯山噴口遠望図(『東洋学芸雑誌』第85号所収「磐梯山破裂ノ話」より)
明治21年(1888)7月15日に噴火した磐梯山(福島県猪苗代町・磐梯町・北塩原村にまたがる山)の噴口図。
地震学者の関谷清景は、磐梯山が噴火すると、ただちに現地に赴きます。そして、噴火口の近くで9日間にわたって調査を行いました。
祝!完成♪♪
揖斐川橋梁完成記念(写真)
明治28年(1895)に完成した関西鉄道揖斐川橋梁(現・三重県桑名市、大垣市・安八町間の揖斐川橋梁とは別)の写真。
この揖斐川橋梁の設計および工事監督は、土木工学者の那波光雄が担当しています。光雄は、鉄道橋梁学を専門とし、日本各地の鉄道橋梁建設に尽力しました。
大革新!足場不要の橋梁工事!!
デリック・クレーンによる鉄道橋梁の工事(写真)
鉄道橋梁の工事を撮影した写真。デリック・クレーンと呼ばれるクレーンを用いた方法で工事をしています。
このクレーンは、土木工学者の那波光雄が考案したもので、古い橋桁に車輪を付けて台車とし、クレーンを取り付けています。足場を組まずに橋梁工事ができます。
ほっこり♪
和田万吉筆 扇面画
和田万吉が描いた扇面画。和田万吉は、東京帝国大学附属図書館の館長を27年間にわたって務め、日本における図書館学の発展に力を尽くした人物です。
万吉は、戯画や風刺漫画を好み、この扇面画のような作品の他、家族に宛てた葉書などにもよく絵を描いています。