画家 守屋多々志の横顔
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西暦 | 和暦 | 出来事 |
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1912 | 大正元 | 8月10日、岐阜県大垣市船町の味噌たまり製造元「四代目孫八」の四男(11人兄弟の8番目)として生まれる。本名は正。 生後100日目に分家守屋貞吉(同市桐ヶ崎町の米穀商)の養子となる。 |
1925 | 大正14 | 大垣市立中小学校(現:大垣市立興文小学校)を卒業。 |
1930 | 昭和 5 | 岐阜県立大垣中学校(現:岐阜県立大垣北高等学校)を卒業。上京して同じ岐阜県出身の前田青邨に師事する。 |
1931 | 昭和 6 | 東京美術学校(現:東京藝術大学)日本画科に入学。在学中に特待生となる。 |
1936 | 昭和11 | 東京美術学校を卒業。卒業制作≪白雨≫によって川端玉章賞を受賞する。 |
1941 | 昭和16 | 再興日本美術院第28回展(以後「第○回院展」と表記)に≪継信忠信≫が初入選する。 |
1943 | 昭和18 | 第30回院展に≪陸奥の宿≫が入選し、院友に推挙される。 この年から雅号を「多々志」とする。 |
1949 | 昭和24 | 第34回院展に≪ふるさとの家(朝餉・午睡・残照・宵宮)≫を出品し、奨励賞(白寿賞)を受賞する。 |
1954 | 昭和29 | 総理府留学生としてイタリアに2年間留学。 |
1958 | 昭和33 | 第43回院展に≪アンジェリコの窓≫を出品し、佳作(白寿賞)を受賞する。 |
1960 | 昭和35 | 鎌倉瑞鹿山円覚寺仏殿の天井画≪白龍≫を完成させる。 |
1967 | 昭和42 | 法隆寺金堂壁画再現模写が開始され、第十号壁「薬師浄土」を担当する。 |
1969 | 昭和44 | 第54回院展に≪楊四娘≫を出品し、特待に推挙される。 |
1972 | 昭和47 | 文化庁より高松塚古墳壁画模写を委嘱され、東壁の女性群像を担当する。 |
1974 | 昭和49 | 日本美術院同人に推挙される。 愛知県立芸術大学日本画科の教授となる。 |
1976 | 昭和51 | 飛鳥保存財団の委嘱により、高松塚壁画館に展示するための壁画模写(20面)に総監督として従事、約2年を要して完成させる。 |
1977 | 昭和52 | 第62回院展に≪駒競べ≫を出品し、文部大臣賞を受賞する。 |
1979 | 昭和54 | 第63回院展出品作≪平家厳島納経≫に対して第29回芸術選奨文部大臣賞が贈られる。 高野山金剛峯寺別殿の襖絵(8室、82面)を3年かけ完成させる。 |
1980 | 昭和55 | 日本美術院評議員となる。 |
1981 | 昭和56 | カトリック教会東京大司教区の依頼によりローマ教皇来日記念として献上する屏風≪ジェロニモ天草四郎≫を制作、ヴァチカンにてヨハネ・パウロ2世に謁見し、これを献呈する。 |
1984 | 昭和59 | 在日ヴァチカン大使館にて聖シルベストロ教皇騎士団勲章の伝達を受ける。 |
1985 | 昭和60 | 第70回院展に≪愛縛清浄≫を出品し、内閣総理大臣賞を受賞する。 |
1991 | 平成 3 | 神社本庁の依頼により、≪平成御大礼絵巻≫を制作、翌年に完成させる。 |
1992 | 平成 4 | 大垣市栄誉市民となる。 |
1994 | 平成 6 | 岐阜県美術館において「いにしえの夢をたどる-守屋多々志展」(主催:岐阜県美術館ほか)が開催される。 モロッコの首都ラバトの王宮ギャラリーとパリのルーヴル美術館新館カールセル・ド・ルーヴルにおいて、「平成御大礼絵巻特別海外展」が開催される。 |
1996 | 平成 8 | 茨城県近代美術館において「-歴史の旅人-守屋多々志展」(主催:茨城県近代美術館)が開催される。 文化功労者の顕彰を受ける。 |
2001 | 平成13 | 東京ステーションギャラリーにおいて「空海入唐求法1200年 守屋多々志 高野山金剛峯寺障屏画展」(主催:財団法人東日本鉄道文化財団ほか)が開催される。 出身地大垣市へ3,300点の作品を寄贈・寄託する。 7月28日、大垣市守屋多々志美術館が開館する。 11月3日、文化勲章を受章する。 NHK教育番組「新日曜美術館 二万五千枚の絵日記 日本画家 守屋多々志の軌跡」が放映される。 |
2003 | 平成15 | 鎌倉生涯学習センターギャラリーにおいて「守屋多々志が描く鎌倉の風致」が開催される。 12月22日、心不全のため、聖路加国際病院において死去。 |

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