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所蔵品

  • [2023年4月1日]
  • ページ番号 2015

大垣市では、かねてより当市出身の守屋画伯の作品を収集してきました。
更に、当美術館が開館するにあたって守屋画伯より3,300点に及ぶ作品・資料を寄贈・寄託して頂き、現在、皆様にご覧頂いております。
 

院展出品作

 守屋は師の前田青邨が所属していた縁もあり、再興日本美術院に多くの作品を出品しています。当館では、所蔵する作品を企画展などでご紹介しています。
 守屋の院展に初入選は、昭和16年の第28回院展に出品した≪継信忠信≫です。昭和18年には≪陸奥の宿≫で院友に推挙、昭和24年の第34回院展に出品した≪ふるさとの家(朝餉・午睡・残照・宵宮)≫では、大垣の生家を描き、奨励賞(白寿賞)を受賞しました。

 イタリア留学から帰国後、昭和33年の第43回院展では≪アンジェリコの窓≫を出品、日本画の画材で、西洋絵画のような重厚な画面を描いたこの作品は佳作(白寿賞)を受賞し、高く評価されました。5年後の昭和38年第48回院展では≪ギリシャの壷売り≫を発表しています。自らのイタリア留学の体験は、画風のみならず、日本と外国の交流という幅広い視点で歴史画の制作を展開する守屋の大きなきっかけとなりました。

 ≪ウィーンに六段の調(ブラームスと戸田伯爵極子夫人)≫は、海外交流をテーマにした円熟期の代表作です。平成4年に第77回院展に出品しました。11代大垣藩主で明治20年からオーストリア・ハンガリー全権公使としてウィーンに赴任した戸田氏共(うじたか)の夫人極子(きわこ)は、岩倉具視の娘で、筝の名手としても知られた女性でした。場面はブラームスが極子の演奏に耳を傾けています。ウィーンの楽友協会には、ブラームスが筝の演奏を聴きながら演奏の特徴を書き込んだ楽譜が残されており、昭和60年、関係者の研究により、ブラームスが実際に極子の演奏を聴いたことが発表されました。今から100年以上前の東西の音楽交流に、守屋自身も「こういうことに出会って絵にできるというのは、楽しいことである」と述べています。当時流行した様式の椅子やじゅうたんの模様を描くととともに、筝の装飾や香炉の煙を添えて、音楽とともに東西の出会いが演出されています。

ウィーンに六段の調(戸田伯爵極子夫人)の画像

ウィーンに六段の調(ブラームスと戸田伯爵極子夫人) 平成4年(1992年)制作

その他の作品

 守屋は院展に出品したほかにも多くの作品を描いています。

 ≪住吉燈台(夏祭)≫は、故郷大垣にちなんだ作品です。
 住吉燈台は、守屋の生まれた船町にある大垣のシンボルとも呼ぶべき存在です。市内を流れる水門川は、江戸時代に舟運の拠点として栄えました。住吉燈台は船町湊の目印として建てられました。「奥の細道」を終えた松尾芭蕉が、船で下り、桑名、伊勢、伊賀上野に向かった場所としても知られています。守屋の生家もすぐ近くにあり、幼い頃によく遊んだそうです。住吉燈台一帯の夏祭は、心に最も強く残っている情景だと述べ、繰り返し描いています。
 

住吉燈台(夏祭)の画像

住吉燈台(夏祭) 昭和60年(1985年)制作

習作

 この作品は、≪縞物の娘≫という題の絵で、昭和初期の女性の風俗がよくわかる作品です。守屋の話では、当時はこの「縞物」の着物が流行していたそうです。
 かんざし、襦袢、帯の裏や、手前の反物には非常に細かい模様が描かれています。
 師の前田青邨は「写生」と「模写」の重要性を説き、「目の人」と言われました。守屋も、その教えを受け継ぎ、晩年にいたるまで、欠かすことなく筆を執りました。手と同時に目も養う写生が、守屋の画業をより一層高めたと言えるでしょう。
 

縞物の娘の画像

縞物の娘 昭和10年(1935年)制作

下図

 日本画では、本画を制作するまでに、何度も下絵を描いていきますが、これを下図と呼んでいます。
 生前の守屋画伯は、美術館を訪れる皆様に本画はもちろん下図も含めて画業のすべてを見てほしいと望んでいました。
 この作品は、≪縞物の娘≫の下図です。
 顔の部分が直されています。着物の縞模様や反物の模様も下図の段階で細かく描かれていています。本画と比べても見劣りせず、下図にも手を抜かず、制作に取り組む守屋の姿勢がよく分かります。
 

縞物の娘(下図)の画像

縞物の娘(下図)

スケッチ(絵日記)

 守屋を今日まで高めてきたものは、前田青邨に師事してから一度も欠かしたことないスケッチが挙げられます。それらは現在25,000枚以上に上りますが、当館では、大垣近郊、中山道、飛騨・奥美濃などのスケッチを収蔵しており、それらを皆様に公開しています。
 故郷大垣を描いた絵は、実家である味噌たまり醸造元「かねまる」商店を描いたものや、城下町大垣の昔の姿を描いたものがあります。
 そして日付をよく見ると、同じものが見受けられることから、1日に大垣の色々な場所を廻ってスケッチした活動的な守屋の姿を思い浮かべることができます。特に鵜飼シリーズは、1日で20枚前後描いており、刻々と変化していく鵜飼の様子を鵜匠の気持ちになって描いています。
 守屋は前田青邨から教えられた「毎日欠かさず描く」という画家としての基礎を、現在も守り続けているのです。
 

大垣城普請の画像

大垣城普請 昭和8年(1933年)制作

養老の滝の画像

養老の滝 平成元年(1989年)制作

扇面芭蕉

 「扇面芭蕉」シリーズは守屋の晩年のライフワークのひとつです。松尾芭蕉の句や時代から想を得た情景を扇形の絵に表現しています。
 大垣は、芭蕉が深川から東北、北陸と巡った「奥の細道」むすびの地で、芭蕉が旅をむすんだ船町に生れ幼少年期を過ごした守屋に、大きな影響を与えました。「扇面芭蕉」の制作にあたり、守屋は次のように述べています。

 <作品を産み出した彼の心境や、その時代の風物、世相、風俗、人情等を私の「芭蕉観」の構想によって描いてゆきたいと思っている>(「扇面芭蕉」図録より)

 「自分は画家であって文学者ではない」と守屋は言います。扇面芭蕉は守屋独自の視点によって描かれているのが特徴です。「梅柳 さぞ若衆かな女かな」は、梅と柳をそれぞれ若衆と女に見立てて詠んだ句ですが、着物で表すという独自の視点によって描いている代表的な「扇面芭蕉」の作品と言えます。
 

扇面芭蕉「梅柳 さぞ若衆かな 女かな」の画像

扇面芭蕉 「梅柳 さぞ若衆かな 女かな」

その他

 当館では守屋が画業に携わる中での、いろいろな関係資料も展示しています。
 実際に使用していた顔料や刷毛、東京美術学校時代に描いたスケッチ類、守屋が表紙を描いた装丁書や歌舞伎の筋書、イタリア留学時代の収集品などを展示しています。
 また、守屋の画業をより詳しく知りたい人のために、1階ロビーにはプラズマテレビによるDVD放映も行っており、美術全般に関する資料や作品集・図録も閲覧できるようにしています(貸し出しは行っていませんのでご了承ください)。
 

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