守屋多々志画伯の作品紹介
- []
- ページ番号 69742
院展出品作品
守屋画伯は師の前田青邨が所属していた縁もあり、再興日本美術院に多くの作品を出品しています。
守屋画伯の院展に初入選は、昭和16年の第28回院展に出品した≪継信忠信≫です。昭和18年には≪陸奥の宿≫で院友に推挙、昭和24年の第34回院展に出品した≪ふるさとの家(朝餉・午睡・残照・宵宮)≫では、大垣の生家を描き、奨励賞(白寿賞)を受賞しました。

また、守屋画伯は、≪竹千代出陣≫をはじめとした武者絵を得意としました。≪星と武者≫では、群青にまとめた美しい色調の中で、後姿のみで甲冑や武具の意匠を描き分けており、歴史研究に通じた守屋画伯の力量がうかがえます。

竹千代出陣

星と武者
イタリア留学から帰国後、昭和33年の第43回院展では≪アンジェリコの窓≫を出品、日本画の画材で、西洋絵画のような重厚な画面を描いたこの作品は佳作(白寿賞)を受賞し、高く評価されました。自らのイタリア留学の体験は、画風のみならず、日本と外国の交流という幅広い視点で歴史画の制作を展開する守屋の大きなきっかけとなりました。

≪ウィーンに六段の調(ブラームスと戸田伯爵極子夫人)≫は、海外交流をテーマにした円熟期の代表作です。平成4年に第77回院展に出品しました。11代大垣藩主で明治20年からオーストリア・ハンガリー全権公使としてウィーンに赴任した戸田氏共(うじたか)の夫人極子(きわこ)は、岩倉具視の娘で、筝の名手としても知られた女性でした。場面はブラームスが極子の演奏に耳を傾けています。ウィーンの楽友協会には、ブラームスが筝の演奏を聴きながら演奏の特徴を書き込んだ楽譜が残されており、昭和60年、関係者の研究により、ブラームスが実際に極子の演奏を聴いたことが発表されました。今から100年以上前の東西の音楽交流に、守屋画伯自身も「こういうことに出会って絵にできるというのは、楽しいことである」と述べています。当時流行した様式の椅子やじゅうたんの模様を描くととともに、筝の装飾や香炉の煙を添えて、音楽とともに東西の出会いが演出されています。

扇面芭蕉
「扇面芭蕉」シリーズは守屋画伯の晩年のライフワークのひとつです。松尾芭蕉の句や時代から想を得た情景を扇形の絵に表現しています。
大垣は、芭蕉が深川から東北、北陸と巡った「奥の細道」むすびの地で、芭蕉が旅をむすんだ船町に生れ幼少年期を過ごした守屋画伯に、大きな影響を与えました。「扇面芭蕉」の制作にあたり、次のように述べています。
<作品を産み出した彼の心境や、その時代の風物、世相、風俗、人情等を私の「芭蕉観」の構想によって描いてゆきたいと思っている>(「扇面芭蕉」図録より)
「自分は画家であって文学者ではない」と守屋画伯は言っています。扇面芭蕉は独自の視点によって描かれているのが特徴です。

源氏物語
源氏物語に深い学識を持っていた守屋画伯は、自身の画想によって、その世界観を130点の扇面画として描きました。

絵日記(スケッチ)
守屋画伯を今日まで高めてきたものは、前田青邨に師事してから一度も欠かしたことないスケッチが挙げられます。それらは25,000枚以上に上ると言われており、画家としての基礎を形作っています。

住吉神社(大垣亀屋町)

大垣船町 一ツ目橋
小倉百人一首
歌人全員が鎌倉時代の服装で描かれている百人一首を、自分が研究した姿で描こうと考え、階級や趣味、性格なども調べ、血の通った歌人像に表現しました。

壁画模写
昭和40年代には「法隆寺金堂壁画再現模写」「高松塚古墳壁画模写」といった国家事業に携わりました。これら古画再現の功績もあり、後に、文化勲章を受章しました。

高松塚古墳壁画模写

隆寺金堂壁画再現模写

