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あしあと

    江口夜詩メモリアルコーナー

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    • ページ番号  54053

     「江口夜詩メモリアルコーナー」では、”大衆音楽の父”と讃えられている作曲家 江口夜詩の直筆楽譜など貴重な資料を展示しています。(入場無料)

     また、その一角には夜詩の子息で同じく作曲家として活躍した江口浩司(えぐちひろし)に関する資料も展示しています。

    展示物のご案内

    江口夜詩の代表作

    憧れのハワイ航路

    江口夜詩は生涯に4000曲作ったといわれているが、そのなかで最も代表的な一作が、この「憧れのハワイ航路」である。
    昭和23年の夏に、当時24歳で青雲の志を抱いて歌謡詞誌に投稿していた石本美由起の詞「長崎のザボン売り」に、江口が曲をつけ、小畑実が歌ってヒットした。そして同年の秋に、同じ石本の詞に江口が曲をつけた歌の第2弾としてキングレコードから出した歌が、「憧れのハワイ航路」だった。戦災で蓄音機も少なかった時代に、あっというまに40万枚も売れ、NHKラジオの歌番組「今週の明星」で、古賀政男作曲の「湯の町エレジー」と毎週のように1位を競い、歌謡曲ファンを湧かせたという。「月月火水木金金」「轟沈」等、明るい行進曲調の作曲を得意とした江口の、歯切れのよいメロディーと、石本の夢のあふれる歌詞が、岡晴夫の明るい歌声に乗って、戦後社会再建の風潮によくマッチした。
    レコード録音を終えて、試聴盤を持って帰った江口が、歌の弟子たちに試聴盤を聞かせ、この岡晴夫の歌い方こそが流行歌というのもだ、と言ったという。本人としても、会心の作だったのだろう。
    作詞の石本は、このころはまだハワイへは行ったことがなく、広島県大竹市の実家から眺望できた、瀬戸内海を走る関西汽船の別府航路のイメージで書いたという。ただし、当初は「憧憬の船出」というタイトルで、詞の中にも「ハワイ航路」という文字は入ってなかった。(展示参照)石本は、「長崎のザボン売り」「憧れのハワイ航路」「東京の空青い空」とその才能を江口に見出され作詞家としてデビューし、その後、美空ひばりの「港町十三番地」(上原げんと作曲)、「悲しい酒」(古賀政男作曲)、細川たかしの「矢切の渡し」(船村徹作曲)とヒットメーカーになっていく。


    《「憧れのハワイ航路」の原型》

    タイトルもメロディも「憧れのハワイ航路」とは別のものだが、歌詞を読むと、明らかに「憧れのハワイ航路」の原型といえる。この「憧憬の船出」が、現在歌われているようなメロディをつける過程で、歌詞が添削され、下のような「憧れのハワイ航路」となっていった。

    憧憬の船出
    1.晴れた空 そよぐ風 港出船の 銅鑼の音愉し 別れテープを 笑顔で切れば 望みはてない 潮路を遥か 鷗らと 越えていく あゝ憧憬の 今朝の船
    2.波の瀬を 薔薇色に 染めて真っ赤な 夕陽が沈む 港娘の 歌声慕い 一人デッキでウクレレ弾いて 唄ううた 恋の唄 あゝ憧憬の 愉し船路
    3.波に散る 二十日月 夜のキャビンの 小窓を照らす 夢も通うよ あの港街 明日は入港 可愛い 南国の乙女待つ あゝ憧憬の 南の島

    憧れのハワイ航路
    1.晴れた空 そよぐ風 港出船の ドラの音愉し 別れテープを 笑顔で切れば 希望はてない 遥かな潮路 ああ あこがれの ハワイ航路
    2.波の瀬を バラ色に 染めて真赤な 夕陽が沈む 一人デッキで ウクレレ弾けば 歌もなつかし あのアロハオエ ああ あこがれの ハワイ航路
    3.常夏の 黄金月 夜のキャビンの 小窓を照らす 夢も通うよ あのホノルルの 椰子の並木路 ホワイトホテル ああ あこがれの ハワイ航路

    《作詞家 石本美由起からの手紙》

    「憧れのハワイ航路」は、現代歌謡作詞界の第一人者・石本美由起の出世作である。石本から江口へのこの手紙は昭和23年8月に書かれたものであり、青年石本が初めて上京しようとしていることが読み取れる。6月に発売した石本のデビュー作「長崎のザボン売り」(江口夜詩曲、小畑実歌)と、10月に発売する「憧れのハワイ航路」のちょうど狭間に書かれた手紙である。手紙のなかに出てくる「懐かしの東京航路」は翌24年5月に、「東京の空青い空」は24年3月に、ともに岡晴夫の歌で発売されヒットしたもの。ほかにも「函館のランタン娘」(小畑実歌、昭和23年10月)、「じゃがたら出船」(谷美子歌、昭和23年10月)と、江口・石本コンビ発足の熱い情熱が感じられて、貴重な史料である。


    《作曲家 江口浩司 父 夜詩の代表作「憧れのハワイ航路」を語る》

    《作詞家 石本美由起 夜詩を語る》

    千代田城を仰ぎて (海軍軍楽隊演奏)

    大正14年、22歳のときに作曲した処女作。ときの隊長、佐藤清吉軍楽大尉の指揮、海軍軍楽隊の演奏により、開局当初のラジオ放送で発表された。この後、毎年元旦の朝に、海軍軍楽隊の演奏でこの曲が慣例的にラジオ放送されるようになる。海軍軍楽隊の演奏レパートリーにも加えられた。
     昭和5年、ポリドールとパルロフォンの2社から同時にレコード発売された。

    吹奏楽大序曲「挙国の歓喜」 (海軍軍楽隊演奏)

    昭和天皇の即位礼は、昭和3年に京都で挙行された。この曲は、同年9月に完成したもので、11月18日、京都市公会堂における京都市主催の秩父宮殿下・各皇族・大礼使・高等官招待夜会で、陸海軍軍楽隊合同150名により奉祝演奏された。12月には日比谷公園での奉祝演奏会で、やはり陸海軍軍楽隊合同により演奏された。「生涯における最大の作曲であり、最大の栄誉」と後に江口は述懐している。昭和13年にコロムビアから2枚組でレコード発売された。平成の皇太子成婚記念CDに、海上自衛隊東京音楽隊(谷村政次郎指揮)の演奏により収録され、久々によみがえった。

    忘られぬ花

    西岡水朗詞、池上利夫歌

    昭和7年の作品。レコードB面の「時雨ひととき」とともに大ヒットとなり、江口は一躍、流行歌の作曲家となる。歌手の池上利夫は後の松平晃である。翌年春には松竹がこの歌のヒットを受けて映画化もしている。
     江口は自叙伝にこの歌についてこう書いている。「この「忘られぬ花」は今でもこれを聴く度に作曲した時の事を思ひ出される。西岡水朗氏から数編の歌詞を送って来た中にこの歌を発見した時、その頃まだ亡妻を忘れ兼ねていた私の心の奥底を深く針でさされる思ひだった。歌詞を手にしてすぐに作曲にかかった。十五分か二十分の間にすらすらとまるで前から出来ていたようにメロデーが流れ出て来た。後から後からと続いて出て来るメロデーを五線紙に書き取るのが忙しいくらいだった。書き上げてピアノに向かって歌ってみる時、私の両眼は涙が止めどもなく流れていた。後で私はこんな和歌をこの曲の終わりに書きつけた。 「幾年を なほ忘られぬ花ゆえに この一と節を 泣き濡れて書く」
     大正14年に結婚した妻・喜枝は、昭和5年4月に1男1女を残して24歳の若さで病没した。

    時雨ひととき

    飛鳥井汎二詞、渡瀬春枝歌

    流行歌でははじめてバンジョーを伴奏に使って、作編曲に新機軸を打ち立てた。渡瀬春枝は、東京高等音楽院(現・国立音楽大学)の出身で、オペラ界でも活躍していた、宝塚音楽学校の重鎮・渡辺(月村)光子である。
     翌年春には新興キネマがこの歌のヒットを受けて映画化もしている。

    十九の春

    西条八十詞、ミス・コロムビア歌

     昭和8年、松竹映画「十九の春」(監督・五所平之助、出演・伏見信子、山内光、村瀬幸子)の主題歌としてヒットした。当時まだ珍しかったハワイアン・ギター(ディック・ミネ演奏)を前奏に使っている。コロムビアレコードはこの歌の宣伝で、松竹映画とタイアップして、全国から18~20歳の美人を募集した。賞品はコロムビア蓄音機とレコードだったという。美人コンテストのはしりだった。

    急げ幌馬車

    島田芳文詞、松平晃歌

     曠野もの歌謡、さすらいもの歌謡といわれたこのころの流行歌の先駆けとなった昭和9年のヒット曲。遥か彼方の山のふもとを1台の幌馬車が鈴の音を響かせながら次第に近づいてくる描写音楽の前奏部は、レコード歌謡に新しい分野をひらいた。「この曲はまさに私の快心の一作である」と江口は述懐している。手書きスケッチ譜(画像2枚目)では、タイトルが「涙の幌馬車」となっており、音符に推敲の跡が見られる。松平晃と豆千代の歌による「夕日は落ちて」(久保田宵二詞、江口夜詩曲、昭和10年)も曠野もの歌謡のヒットのひとつである。

    心のふるさと

    大木惇夫詞、関種子歌

     NHKの「国民歌謡」として昭和11年に大阪中央放送局(JOBK)から放送された。好評だったことから、昭和14年にレコード発売された。往々にしてエロ・グロに走るか、国民精神の高揚に使われがちだった流行歌のなかで、この歌は清純な抒情歌としてヒットしたことから、江口の最も気に入っていた自作のひとつだった。

    月月火水木金金

    高橋俊策詞、内田栄一歌

     海の護りの我が海軍の艦隊勤務には、陸上のように一週が、日月火水木金土とはゆかない。日曜も土曜もない一年365日「月月火水木金金」の連続で、明日の戦闘に備えているのが我が艦隊勤務の常住の姿である。このことばは戦時下全国民の合言葉として使われ、愛唱され一億民の志気を鼓舞した。

    赤いランプの終列車

    大倉芳郎詞、春日八郎歌

     リズミカルな中に、独自の哀愁を漂わせるフレッシュさが大衆に受け大ヒットした。アフタービートの前間奏も、夜詩ならではの力作で、春日八郎にとっては歌手生活をかけた晴れの始発列車となった。

    瓢簞ブギ

    高橋掬太郎詞、春日八郎歌

     昭和29年、生れ故郷の養老観光協会から依頼を受け、構想2カ月、地方小唄に初めてブギのリズムを取り入れ、春日八郎が歌い大ヒットした。故郷を思う江口夜詩の念願の作である。

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